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東京高等裁判所 昭和63年(ネ)2174号 判決

控訴人

大井正則

長谷川昭一

右二名訴訟代理人弁護士

別紙控訴人ら代理人目録記載のとおり

被控訴人

室町産業株式会社

右代表者代表取締役

風祭康彦

右訴訟代理人弁護士

別紙被控訴人代理人目録記載のとおり

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人ら

1  原判決を取り消す。

2  控訴人大井正則と被控訴人との間で昭和三九年夏ころになされた契約による「被控訴人が原判決別紙第一物件目録(一)及び(二)記載の各土地の所有権を取得したときは、同控訴人が被控訴人に右各土地を引き渡す」との債務が存在しないことを確認する。

3  被控訴人は、控訴人大井正則に対し、原判決別紙第一物件目録(三)ないし(七)記載の各土地について、新潟地方法務局長岡支局昭和四〇年三月一九日受付第四四五〇号条件付所有権移転仮登記及び同支局同日受付第四四五一号抵当権設定登記の各抹消登記手続をせよ。

4  亡長谷川清四郎と被控訴人との間で昭和三九年夏ころになされた契約による「被控訴人が原判決別紙第二物件目録(一)記載の土地の所有権を取得したときは、控訴人長谷川昭一が被控訴人に右土地を引き渡す」との債務が存在しないことを確認する。

5  被控訴人は、控訴人長谷川昭一に対し、原判決別紙第二物件目録(二)記載の土地について、新潟地方法務局長岡支局昭和三九年一〇月二〇日受付第一四七二五号条件付所有権移転仮登記及び同支局同日受付第一四七二六号抵当権設定登記の各抹消登記手続をせよ。

6  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

二  被控訴人

主文と同旨

第二  当事者の主張

当事者双方が原審における主張を敷衍して以下のとおり主張するほかは、原判決事実摘示のとおりである。

一  控訴人ら

1  田中と被控訴人との一体的関係

原審で述べた事情のほかに、以下の事実からみても、被控訴人と田中が一体であること又は被控訴人が実質的に田中によって支配される存在であることは明らかである。

(一) 被控訴人は実体のない会社であり、専属の従業員はおらず、被控訴人の会計事務等の仕事は、田中事務所の秘書らによって行われていた。そして、被控訴人及び東京ニューハウス株式会社(以下「東京ニューハウス」という。)等の田中の関連会社は、田中事務所の経費を支出、負担するなどその財政を支えるために設立され、存続していたものにすぎない。

(二) 被控訴人は、昭和五五年三月、資本金一〇〇〇万円を出資して千秋が原工業株式会社(以下「千秋が原工業」という。)を設立したが、右資本金のうち、六五〇万円については、長岡市に譲渡した残りのほとんどの本件河川敷を現物出資した。そして、昭和五八年三月、株式会社新潟遊園(前身は東京ニューハウスである。以下「新潟遊園」という。)に千秋が原工業の全株式を二億円で売却した。同年八月、新潟遊園は長鐡工業株式会社(以下「長鐡工業」という。)に吸収合併され、千秋が原工業の全株式は長鐡工業が保有することになった。長鐡工業は、越後交通株式会社(以下「越後交通」という。)とともに、田中ファミリー企業の中核的存在であり、田中は、長鐡工業の株式の大半を所有する実質上のオーナーである。

このことは、現在、本件河川敷を田中が実質所有していることを意味する。田中は被控訴人の株式を所有していないが、右のような態様により被控訴人の唯一の財産であった本件河川敷を実質的に所有するに至っている。

2  築堤計画に対する田中の認識

以下の事実からして、田中は、農民から本件河川敷の買収を始めた昭和三八年九月までに、蓮潟地区に連続堤としての築堤が計画されていたことを知っていたものである。そして、政治家の地位の利用が問題となる本件のような場合には、国民代表としての政治家の職責や立証の負担における公平さなどからして、その蓋然性を示す証拠が提出されたときには、逆に政治家側において、地位の利用がなかったことを主張立証しなければならない。

(一) 蓮潟地区における築堤は、昭和二八年度以降信濃川改修総体計画及び昭和三五年の一〇か年長期計画において、既に掲げられていたのであり、その後の昭和四〇年度からの五か年計画への変更によっても、着工時期はともかくその内容における変化はなかった。

建設省における公共事業は、長期計画に基づいて実行されており、その予算については、基本的には右長期計画によって初年度は新規施策として、以後は継続施策として所要予算の要求がなされる。そして、我が国の予算制度を前提にすると、昭和三五年の一〇か年長期計画(前期五か年計画と後期五か年計画とに分かれる。)につき初年度予算が建設省の概算要求として大蔵省に提出された昭和三四年八月三一日以降、大蔵大臣は右長期計画の全貌を知り得たことになる。

田中は、昭和三三年に農民らの陳情を受けた際には、築堤工事はとても難しいと断ったが、昭和三六年には一転して、陳情にきた主立衆に対し、築堤工事を前提とした開発計画を示し始め、昭和三七年三月には農民ら全員から売却についての承諾書を提出させているが、これは、田中が右長期計画によって築堤計画を知ったからにほかならない。

(二) 昭和三七年二月、北陸地建と長岡工事事務所との打合せにより、蓮潟地区の築堤について、従前の計画を変更して霞堤を締め切ることが決められた。当時の技術からして、当然のことであった。したがって、少なくとも、北陸地建内部においては、連続堤が動かし難いものとなっていたのである。

同年四月、松野時雄が長岡工事事務所長を辞めて、田中が代表取締役を務める日本電建株式会社(以下「日本電建」という。)に入社したのであり、田中は、松野を通じて築堤計画の詳細を知り得た。

(三) 田中の山田泰司秘書は、昭和三四年ころから新潟三区における公共事業の陳情にかかわった。山田は、地元民の陳情を受けて、建設省など担当省庁の職員と同道したりして陳情書をまとめ上げ、各省庁にこれを提出したうえ、各省庁の担当者に面接して上申し、その検討結果については、予算化された段階で各担当部署からその旨の連絡を受けていた。

田中は、昭和三三年に農民らから陳情を受けて、山田秘書らに指示して建設省への上申等に当たらせたと考えられ、山田秘書を通じることによっても、築堤計画の詳細を聞いていた。

(四) 田中は、当時既に、いわゆる「建設族」のボスであり、建設行政に対する絶大な影響力を持っていたのであり、この点からしても築堤計画の詳細を知らないはずはない。霞堤と連続堤との差異は、築堤の最終段階において堤防を締め切るかどうかの違いにすぎず、田中としては、近い将来(数年後)に築堤工事がなされ、最終的に締切りがなされることを知っていれば、本件の築堤計画を認識していたといってよい。

3  田中の政治家としての地位利用と本件各契約の無効

(一) 本件各契約は、田中が政治的地位を利用して知り得た情報を利用し、田中と一体であるか又は田中により実質的に支配されている被控訴人を使って締結したものであるから、政治家がその職務上知り得た情報を利用し自己又は第三者の利益を図る行為として公序良俗違反となる。

(二) 仮に田中が被控訴人に対して実質的に強い影響力を有する関係に止まる場合であっても、田中が本件各契約に全く関与していないなどの特段の事情がない限り、田中はその職務上知り得た情報を利用して第三者たる被控訴人の利益を図ったと認めるべきである。けだし、田中と被控訴人との間に右のような関係が存在する場合には、田中が職務上知り得た情報を、いつ、どこで田中が被控訴人に伝達したかを具体的に判断するまでもなく、田中と被控訴人との間にいわば情報の共有関係があることが推認されるからである。

二  被控訴人

1  田中と被控訴人との関係について

(一) 法人の多くは、その時々で、役員構成も変化し、株主構成も変動して、その事業活動を継続させていくのを通常とするものであるから、本件各契約締結の時点より三十有余年を経過する間の、どの時期であれ、被控訴人が国際興業株式会社(以下「国際興業」という。)その他第三者の参加を得て、不動産取引のみならず、有価証券取引等を行っている以上、現に法人として存在するものであり、仮に一時期、独立の営業所を持たなかったり、専属の従業員をおかないことがあったとしても、被控訴人が「幽霊企業」などではあり得ず、一時期の役員構成や株主構成をもって田中と一体と解することはできない。また、被控訴人が田中事務所の経費を負担したのは昭和四八年ころ以降であり、その事実を理由に、本件各契約当時被控訴人と田中とが一体であったとみることはできない。

(二) 被控訴人が本件河川敷を買い受けてから既に三〇年を経過し、その間の社会的、経済的変化は著しく、その周辺の状況は三〇年前には全く想定もしなかったほどの変化を示している。

被控訴人は、当初、砂利採取の目的で本件河川敷を購入したものであり、途中、ゴルフ場の開設を試みたが実現し得ず、長岡市に北半分を譲渡し、残余の土地の大半を現物出資する形で千秋が原工業を設立し、砂利採取も行い、また、長期に及ぶ投下資本の一部を回収するために右子会社の株式をすべて新潟遊園に譲渡した。

その後新潟遊園と長鐡工業とが合併したのは、両会社間の従前からの密接な関係によるものであるが、長鐡工業も、昭和三七年設立後長年月を経て確立された企業体として存在するものであって、田中の会社であると断定できるものではない。

いわんや、被控訴人が所有した千秋が原工業の株式を新潟遊園に譲渡し、同社が長鐡工業と合併したことから、三〇年前の取引主体が田中であったということはできない。

2  築堤計画に対する田中の認識について

(一) 昭和三七年二月、北陸地建と長岡工事事務所との打合せの際、蓮潟地区における築堤につき、霞堤を変えて連続堤とすることが検討されたけれども、最終的には、従前の計画どおり霞堤として掲げられることになり、連続堤案は保留とされた。そして、従前からの霞堤としての計画に基づき、昭和四〇年度以降直轄河川改修新五か年計画が定められ、同年以降、「長岡地区については、右岸堤をほぼ完成し、左岸堤は蓮潟地先を完成する。」と決定され、着工された。その後、霞堤としての工事の進捗に伴い、昭和四三年七月、建設省と北陸地建との協議により、霞堤の締切りが決定され、同年一一月の第三次治水事業五か年計画直轄河川改修事業調書によって「左岸蓮潟築堤護岸を完成させる。」と確定された。

以上の築堤工事の経過からすると、昭和三八年九月の本件各契約締結以前に、田中は、霞堤としての着工時期やその締切りの計画を知ることはできなかったものである。

(二) 蓮潟地区の築堤については、連続堤として完成しない限り、本件河川敷が堤内地となり、廃川敷地処分の対象になることはないのであるから、本件各契約以前に田中が連続堤としての工事が行われることを認識していなければ政治家としての地位の利用は問題にならない。

一般に河川改修は、上流の改修状況に伴う洪水時の水量、河状の変化、工事の進捗に伴う河川の治水管理状況を勘案しつつ徐々に進行させるのが原則であり、最終的に堤防を締め切るか否かは、かかる河川の状況を判断しつつ決められるものであるから、霞堤としての着工があったからといって、直ちに連続堤につながるというものではなく、右着工時に、連続堤の完成時期を明確にできるものではない。

したがって、仮に田中が霞堤としての着工の時期を知っていたとしても、その締切りがなされるかどうか、なされるとした場合の時期を予測することは到底不可能であり、政治家としての地位の利用が問題となる余地はない。

第三  証拠関係〈省略〉

理由

第一請求原因及び抗弁について

請求原因事実のうち控訴人らが九条地の一、二の耕作権を有していたことを除くその余の事実及び抗弁事実のうち本件停止条件付引渡契約の締結日を除くその余の事実は、いずれも当事者間に争いがなく、〈書証番号略〉及び弁論の全趣旨により本件停止条件付引渡契約は昭和三九年五月に締結されたことが認められる。

第二再抗弁1の(一)、(二)(政治家としての地位利用)について

一事実関係

当事者間に争いのない事実に、証拠(〈書証番号略〉、原審証人関藤栄、同松木明正、同風祭康彦、同鈴木昭雄、同笠井伊忠次、当審証人京坂元宇、同小林孝平、同庭山泰徳、同山田泰司、同遠藤昭司、原審における控訴人ら各本人、被控訴人代表者入内島金一の各供述、原審及び当審における各検証)及び弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実が認められる。

1  本件河川敷売却に至る経緯

(一) 新潟県長岡市は、おおむね南から北に流れる信濃川によって東西に二分され、東側(信濃川右岸)に位置する長岡市街地と西側(信濃川左岸)に位置する上川西地区とは、かつては旧国道八号線の長生橋とこれから四キロメートル下流にある県道長岡・与板線の蔵王橋の二橋で結ばれているだけであった。この二橋にはさまれた信濃川左岸に本件河川敷が存在している。本件河川敷付近は、蛇が卵を飲みこんだように部分的に川幅がふくれて約一六〇〇メートルもあり、信濃川左岸の旧堤防が極端に湾曲した形となっており、本件河川敷の中には低水路が形成されていた。本件河川敷には、旧河川法下において、河川区域の認定を受けていた部分とその認定のない部分とが混在しており、そのために九条地と民有地とが併存していた。

(二) 信濃川左岸の上川西地区は、昭和二九年に長岡市に合併されるまでは古志郡上川西村と呼ばれ、三ッ郷屋、小沢、古正寺、寺島、蓮潟、宮関、下柳、荻野、藤沢の各部落から構成されていた。右各部落の農民らは、旧堤内地に農地を所有していた(控訴人大井及び亡清四郎も一町歩を超える堤内地の農地を所有していた。)ほかに、旧堤外地であった本件河川敷内の畑を耕作し、野菜類を収穫していたが、本件河川敷は三年に一度は大洪水に見舞われ、その度につつが虫病が発生して死傷者を出すなど悪条件と闘いながら右土地を耕作していた。

上川西地区の農民は、昭和六年ころから、ふくらんで湾曲した旧堤防より水路寄りに直線状の新堤防を設置すること(いわゆる堤防送り出し)により、本件河川敷を冠水のおそれのない堤内地とし、大洪水等から耕作地をまもることを願うとともに、信濃川右岸の旧長岡市への往来を便利にするために長生橋と蔵王橋との中間に橋を架けてもらうことを要望し、実現のための運動を進めた。しかし、この運動には、本件河川敷周辺の農民だけでなく、他町村を含む広範囲にわたる農民も参加していたため、運動自体積極的でなかった。

(三) 昭和二四年ころ、上川西村で耕地整理事業が開始され、この事業が進むにつれ、関係農民の間において、本件河川敷の有効利用を図るべく堤防送り出し及び架橋の実現を求める気運が盛り上がってきた。これをきっかけに、上川西村の村長をしていた寺島部落の丸山九郎が先頭に立ち、超党派で堤防送り出しの運動をすべく、本件河川敷沿いの最も利害関係のある上川西地区の部落の有力者らに呼び掛けをし、これに賛同した寺島部落の星野九一郎、蓮潟部落の大井栄三郎、松木明正、南藤太郎が発起人となり、昭和三〇年に「信濃川堤防送り出し期成同盟会」が発足した。右期成同盟会は、堤防の送り出し及び架橋の実現のほかに、農家の二男、三男対策を考えて、送り出し後の河川敷を開発して工場を作り、二男、三男に職を提供することをも目的とした。

(四) 右発起人らは、それぞれが属する組織を通じて関係各方面に対し、堤防送り出し等の陳情を繰り返し行ったが、いずれも実現は困難視された。例えば、丸山や南は、かねてから支援していた地元選出の保守系の大野市郎衆議院議員に、松木は、農民運動に従事していたことから、地元選出の日本社会党の清沢俊英衆議院議員にそれぞれ陳情したりした。

ところで、田中は、昭和二二年に地元の新潟三区から衆議院議員に初当選し、昭和二八年には自由党新潟県支部長を務めるなど地元の期待を集める有力政治家となっていた。そこで、発起人らは、一致して田中の力に頼ることにし、昭和三三年春、田中が長岡入りした際、発起人らが田中を宿泊先に訪ね、堤防送り出しと架橋の実現を陳情したが、田中からは困難である旨いわれた。しかし、その後も田中に直接又は地元の長岡鉄道株式会社(当時、田中が代表取締役社長を務めており、その後の昭和三五年一〇月、栃尾電鉄株式会社及び中越自動車株式会社を合併し、商号を越後交通株式会社と改める。)の専務取締役で田中への取次の窓口であった関藤栄を通じ、堤防送り出し及び架橋の実現を求めるとともに、堤防送り出し後の本件河川敷に土地の開発をする会社か地元の発展に役立つ企業を誘致してほしい旨の陳情を繰り返した。

(五) 右発起人らは、そのかたわら、堤防の送り出し及び架橋の実現等を効果的にするため、前記関係部落に部落長を通じ、陳情の趣旨を説明させ、関係農民の協力を求める運動を進めた。そして、昭和三六年、右運動を強力に推進するため、各部落から二、三名の主立衆を選び、これらの者たちにより、期成同盟会の機関としての堤防送り出し委員会が結成され、大井栄三郎が委員長に就任した。

(六) 右委員長は、堤防送り出し後に堤内地となる河川敷の利用方法について、二、三男対策という当初の目的もあって、農民が土地を出し合い、出資して工場を建設し、あるいは工場を誘致することを検討し、委員を通じて各部落における農民の意向を徴したところ、工場建設の案については、農民らに資金がなく、出資などは到底無理であるとの理由で賛成が得られず、工場誘致案についても、委員らが長岡市の有力者に打診したものの、結局は無理であるということから駄目になり、また、全体で開発して共同利用をしようという案も出たが、代表者の信用、責任問題をどうするかということで話がまとまらず、各部落内で相談を続けているうち、金が欲しいから高く売却しようという声が上がり、賛同者も多くなり、結局、昭和三六年半ばころまでに全体の大勢は堤防送り出し後の河川敷を売却する方向へ傾いていった。

(七) 右のように関係農民の大勢が堤防送り出し後の本件河川敷を売却する方向へ傾いていった背景には、次のような事情もあった。

昭和三三年、長生橋西詰の北側の小沢、古正寺部落に日産化学工業株式会社が進出することが決まった。同部落の農民らは、昭和三四年までにその工場用地として約二三万平方メートルの土地を同会社に売却し、これによって多額の現金を得たほか、工場に雇用される者も多く、付近は発展していった。これらの状況を本件河川敷周辺の農民らは羨望の目でみていた。また、長岡市の農村地帯においても、農業の機械化が進み、昭和三五年ころから耕運機等の機具の購入資金が欲しいとの気運も強くなってきた。

このようなことから、本件河川敷の農民らは、これを売却したいと考えるようになり、昭和三五年秋ころからは全体としての雰囲気もその方向へ変化していき、委員会は、丸山ら五人の発起人を中心に、売却する土地の範囲や価格の検討に着手した。

(八) 売却の対象範囲については、委員会で検討を重ねた結果、左岸の堤防が送り出される場合には右岸とほぼ平行に送り出されるであろうと考え、更に長生橋や蔵王橋の長さも参考にして、右岸から九〇〇メートルの地点辺りが新堤防の位置として相当であると判断し、また、部落会等を通じて本件河川敷に権利を有する農民の意見を聞き、昭和三七年初めころ、関係各農民の承認をも得て、右岸から九〇〇メートルの線と旧堤防で囲まれた範囲の河川敷を売却の対象地とすることに一応決定した。

そして、売却価格についても、委員会において、できるだけ高値で売却するとの方針のもとに種々検討した。検討前に、当時の内山長岡市長から、河川公園を作りたいので反当たり一万五〇〇〇円で売り渡してほしい旨の申込みがあったり、地元不動産業者から反当たり三万円の引き合いがあったりしたが、いずれも委員会の前記方針からして安価であったため、拒絶したことがあった。当時、本件河川敷から約一〇キロメートル上流の左岸に位置する釜ケ島地区においては、既に新堤防工事の着工がなされ、しかも、当初は霞堤の予定であったものが連続堤に変わり施工されていたことから、本件河川敷における堤防送り出しについても、釜ケ島地区と同様の工事が近い将来に実現すると考えられていた(霞堤は、堤防の一部を締め切らずに開口部を残しておくものであり、洪水が発生したときにはその開口部から堤内に水が流出して、開口部周辺は遊水池としての機能を営むことになる。そして、遊水池からの溢水を防止するために控え堤が必要となり、蓮潟地区において霞堤を設置するときには、旧堤防が控え堤の機能を持たされることになる。それに対し、連続堤は、河川敷と堤内地とを堤防のみで完全に区切り河川敷からの溢水を防止しようというものであり、控え堤を必要としない。)。委員会は、堤防送り出しが実現すれば本件河川敷も堤内地となるのであるから、旧堤防の内外で価格差をつける必要はないと考え、本件河川敷とは旧堤防で隣り合っている元専売公社付近の堤内地の田の売買事例が反当たり一七、八万円であったことなどを参考にして、次のような価格案を作成した。すなわち、民有地のうち、耕作地は反当たり一五万円、不毛地は反当たり七万五〇〇〇円、九条地のうち、耕作地は反当たり七万五〇〇〇円(旧所有者と耕作者が異なっている場合には、旧所有者に三万円、耕作者に四万五〇〇〇円を配分)、不毛地は反当たり三万円、河川敷は反当たり一万五〇〇〇円と決定した。右価格案については、各部落の委員らが各部落に持ち帰り、常会等で報告し、昭和三六年秋ころには関係農民らの承認を得た。

(九) 右委員らは、右価格により本件河川敷を買い取ってくれる買主の斡旋を関藤栄を通じて田中に陳情した。これに対し、田中から、関係農民全員の一致があるならば何とかしなければならない旨の発言もあり、右陳情を実現してもらうためには、関係農民全員が売却に異存のないことを示す必要があると考えられた。そこで、委員長大井栄三郎が発案者となって、「関係農民は前記価格で本件河川敷を売却することを承諾した。」旨の承諾書を用意し、全員から署名押印をもらうこととした。委員らは、関係各部落で集会を開き、農民らに右趣旨を説明して、了解を得、承諾書に署名押印をもらった。

関係農民全員の承諾書が整った昭和三七年三月二四日、委員の松木明正は、右承諾書を持参して関藤栄宅へ赴き、承諾書作成の趣旨を述べて、田中に右趣旨を理解してもらって本件河川敷売却の斡旋を更に強力に進めてもらうよう陳情してほしい旨伝え、承諾書を渡した。

関は、翌日は、承諾書を持って上京し、田中に承諾書を渡して、農民側の要望を伝えた。そして、数日後、大井栄三郎らに対し、田中が「これだけまとまれば、何とか面倒をみなければならない。」旨の意向を示したことを伝えた。その後、昭和三八年六月ころに至り、関から農民らに対し、被控訴人が本件河川敷を買い受ける旨の回答が伝えられた。当時被控訴人の代表取締役であった入内島金一は、右買受けの目的について、本件河川敷において砂利採取をすることと、農民らの陳情に応じることによって今後の田中の選挙に寄与することにあった旨供述している。

(一〇) 本件河川敷の売買契約締結事務については、被控訴人側は、越後交通の関連企業である長鉄砂利株式会社(昭和五一年に長鐡工業株式会社と商号が変更される。)の取締役を務め、測量士の資格をもつ風祭康彦を、他方、農民側は、清水善四郎をそれぞれ当たらせることとし、まず、本件河川敷の更正図の写しを作成し、それに右岸から九〇〇メートルの地点に線を入れ、売買対象地の地番を調査して、それを佐藤法律事務所に渡して、同事務所に登記簿謄本、戸籍謄本等に基づいて本件河川敷の権利関係の確認作業を行ってもらった。

そして、昭和三八年九月に至り、農民側の希望もあって、右確認作業によって権利者が判明した土地から売買契約を進めることになったが、農民の代表者から、公簿面積より実面積の方が広い土地があるので、その土地については実面積で売買代金を算出してほしいとの要求があったので、被控訴人は、検討の結果、農民の代表者が増歩を認めた箇所について実面積で売買代金を決めることを承諾した。

なお、売買契約に先立ち、風祭は、佐藤法律事務所に依頼して、本件河川敷の地権者、地目、面積等権利関係を記載した一覧表を作成してもらったうえ、それに売買代金を記入して右清水に渡し、清水は、該当する権利者に右一覧表を見せ、権利者から事前に承認を得た。

(一一) 昭和三八年九月から契約締結が行われたが、その契約は、部落別に関係者が公民館に集まり、町内会長、農民の代表者が立会い、各人毎に佐藤法律事務所で作成した契約書に署名押印する方法によりなされ、まず民有地のうちの不毛地から売買契約が締結された。そして、同年一二月ころから民有地のうちの農地の売買契約がなされ、昭和三九年五月ころから九条地について停止条件付売買契約(なお、河川敷については、当初反当たり一万五〇〇〇円であったが、反当たり三万円に増額することに合意された。)がなされ、九条地の耕作者との間では反当たり四万五〇〇〇円で停止条件付引渡契約(離作契約)がなされた(以上をまとめて、以下「本件全体契約」という。)。

昭和三九年七月ころ、前記九〇〇メートルの線から右岸側(九〇〇メートルの地点に堤防法線を引いた場合に堤外地となる地域)を耕作している者から、仮に新堤防が右線にできると、川幅が狭くなり、その分だけ自分たちが耕作している土地に冠水する率が高くなり、右線から左側の者は利益を得ているのに、右側の者は金ももらえず損をするので、是非耕作補償料を支払ってほしいといわれ、種々検討した結果、坪五〇円で補償料を支払うこととした。

(一二) そして、控訴人大井及び亡清四郎と被控訴人との間においては、昭和三九年五月ころに九条地につき抗弁記載のとおりの停止条件付引渡契約が、同年九月五日に所有地(ただし、控訴人大井所有の原判決別紙第一物件目録(四)記載の土地は旧堤内地にあるものであった。)につき抗弁記載のとおりの売買契約がそれぞれ締結され、この間の同年七月ころには、前記(一一)の新堤外地耕作補償料契約(控訴人大井につき一反六畝二二歩の補償料として二万五一〇〇円、亡清四郎につき四反七畝二一歩の補償料として七万一五五〇円)が締結され、直ちに売買代金、離作料及び補償料が支払われた。

本件停止条件付引渡契約は、九条地につき旧河川法四四条但書に基づく廃川敷地処分がなされることを停止条件とするものであったが、離作料は右のとおり直ちに支払われた。また、本件売買契約は、農地法五条の許可を停止条件とするものであったが、その代金は契約締結後直ちに支払われ、右停止条件不成就の場合の代金返還請求権の担保のために各所有地に設定された抵当権の被担保債権額も、右代金額を大きく下回るものであった。

本件河川敷について、本件全体契約の締結が終了したのは、昭和四一年八月ころであり、これにかかわった農民は約三〇〇人であった。そして、被控訴人が買い受けた本件河川敷の全面積は約九五万平方メートルであり、代金等の総額は一億四、五千万円であった。なお、本件河川敷のうち民有地の不毛地については、そのころ被控訴人に対する所有権移転登記がなされた。

(一三) 本件河川敷売却の経緯は以上のとおりである。

この点に関し、控訴人らは、田中が農民らに働きかけ又は農民らを誘導して、本件河川敷売却の方向へ進ませた旨主張するが、これを認めるに足りる的確な証拠はない。

〈書証番号略〉(前記関藤栄が昭和五〇年に越山会の集会において「信濃川河川敷の真相」と題して行った講演録)中には、「農民らが田中に堤防送り出し等の陳情を続けたのに対し、昭和三六年に至って、田中から、地元民、土地関係者全員が土地売却に承知であるならば何とかしようということになった。」との記載があるけれども、原審証人関藤栄の供述によると、右講演録は、同人が原稿に基づかずに二、三〇分程度話したことを編集者側で適宜要約整理したものであることが明らかであり、先に認定した売却経過と照らし合わせてみると、右記述から直ちに、田中が農民に対し売却するよう働きかけ又は誘導したと認めるには足りない。また、控訴人大井及び原審証人小林由市は、いずれも、「控訴人ら農民は、田中や被控訴人の関係者から、蓮潟地区の堤防送り出しは難しく、かつ、本件河川敷は国有地であるから、国から求められると返還しなければならないなどといわれ、本件河川敷の売買に至った。」旨供述するけれども、控訴人大井及び右小林は、いずれも蓮潟地区の堤防送り出し運動や本件河川敷の売買の交渉に直接携わったものではなく、右供述内容は伝聞にすぎず、前記認定事実との対比からしても、右各供述をたやすく採用することはできない。

次に、控訴人らは、堤防送り出し委員会を構成した主立衆は田中のとりまき又は側近であり、先に認定したその言動や認識は一般農民の認識とは違うものであったし、また、主立衆が本件河川敷を売却することにしたのは、田中に売却すれば田中の政治力によって堤防送り出しが可能になると考えたからであると主張する。

しかし、右主張はいずれも証拠上具体的な裏付けを伴うものとは認められない。本件各契約後の事情として後記5の(一)ないし(三)で認定する各事実は、一般農民も主立衆と同じ認識の下で本件河川敷の売却を認めていたことを表すものである。

2  本件河川敷周辺の築堤工事の経過

(一) 本件河川敷周辺の蓮潟地区における堤防送り出し工事すなわち新堤防建設の計画については、まず昭和二八年度以降信濃川改修総体計画において霞堤として設置することが計画された。建設省の説明によると、蓮潟地区の築堤が計画されたのは、過去に低水路が蓮潟地区にあったため、すぐ下流の蔵王橋右岸付近に水害を起こすおそれがあり、この偏流を整正する必要があったためであり、また、連続堤とせず霞堤としたのは、信濃川左岸から合流する支川の八ケ川等の洪水処理があることなどから、徐々に堤防を延長しながら河状の変化を検討する必要があったからであるとされた。

そして、右総体計画においては、蓮潟地区の築堤方法は、前記釜ケ島地区の築堤に準じて行うこととされ、釜ケ島地区で計画されていた霞堤の法線延長の実施が河状の変化を把握検討しながら徐々に行うものとするとされたことと同様に懸案事項とされた。

(二) 昭和二八年度以降、北陸地建内部又は同局と建設省本省との間で築堤方法について数次にわたって検討が行われた。昭和三五年一一月に北陸地建と建設省本省との間で行われた検討の結果、築堤計画は従前のままとして掲げられ、今後も検討事項とすることとされた。

昭和三七年二月、北陸地建と長岡工事事務所との間で前記昭和二八年度以降総体計画改定のための打合せが行われ、その結果に基づき作成された北陸地建原案によると、霞堤とすることは意味がないので、現計画法線に従って延長し、締め切って連続堤とするというものであった。しかしながら、建設省本省との打合せの結果、連続提案は保留となり、築堤方法については釜ケ島地区の築堤計画に準じて検討するとされ、総体計画には従前どおりの霞堤のままで掲げられることとなった。釜ケ島地区の霞堤については、昭和三六年六月締め切ることが決定されており、連続堤としての工事が進められた。

(三) 右検討結果に基づき、昭和三八年度以降信濃川上流総体計画が決定され、同計画においても、蓮潟地区の築堤については霞堤として掲げられたが、遊水池とすることの経済効果等を調査し、連続堤とする必要があるかどうか検討するとされ、懸案事項として残された。

(四) 蓮潟地区の築堤計画は、昭和四〇年度以降直轄河川改修新五か年計画においても、霞堤として掲げられ、昭和四〇年度から五年以内に完成することとされ、同年九月に着工された。

なお、昭和四〇年六月二一日、長岡市議会において、同市建設部長は、長岡工事事務所から確認したところとして、蓮潟地区には霞堤が設置される方針であると答弁した。また、昭和四一年一〇月二〇日、衆議院予算委員会において、日本共産党の加藤議員が、本件河川敷の売買について、被控訴人は実質的に田中の会社であって、本件河川敷が築堤工事によりすぐ堤内地となることを知ってただ同然で買い受けたなどと、当時自民党の幹事長であった田中の疑惑を追及した際、橋本建設大臣は、蓮潟地区の築堤方法につき霞堤である旨答弁した。

(五) その後、昭和四三年七月、北陸地建と建設省本省との協議の結果、昭和三八年度以降総体計画の箇所別変更により、蓮潟地区の築堤方法が霞堤から連続堤に計画変更された。その理由は、堤防を締め切っても洪水の流下能力には支障がなく、施工費においても四六八〇万円の節減になり、連続堤とすることによって後記長岡バイパスの工事費節減にも寄与することなどにあるとされている。

そして、右箇所別変更に伴い、第三次治水事業五か年計画直轄河川改修事業計画調書に締切りに必要な四三五メートルの築堤計画が掲げられ、昭和四三年度から五年以内に完成することとされ、実施された。

(六) 前記のとおり昭和四〇年九月に着工された蓮潟地区の築堤工事は、右岸から一一〇〇メートルの地点に築堤されるというものであり、昭和四三年七月に締切りが決定された後、昭和四五年一二月に連続堤として完成した。

右のとおり連続堤が建設されることにより、本件河川敷のうち、新堤防より内側の部分約六二万平方メートルが堤内地(以下、本件河川敷のうち、新堤防の建設によって堤内地となった部分を「新堤内地」といい、それ以外の部分を「新堤外地」という。)となり、廃川敷地処分の対象となり得ることとなった。

建設省は、昭和五二年一一月一日、新堤内地について、廃川敷地処分の公示をした。そして、九条地については、河川法施行法一八条、旧河川法四四条但書の規定に基づき、昭和五三年六月一日、旧地主に下付され、同月二三日に引渡がなされた。そして、九条地について、旧地主から被控訴人への所有権移転登記がなされた。また、民有地の農地についても、控訴人ら二名の本件各所有地を除き、農地法の許可がなされ、被控訴人への所有権移転登記がなされた。

(七) 築堤工事の経過は以上のとおりである。

ところで、霞堤の締切りが昭和四三年七月に決定された経緯に関し、建設省の関係資料に疑義がある旨控訴人らから主張されている。しかし、〈書証番号略〉及び原審証人鈴木昭雄の供述によると、昭和五〇年、行政管理庁が霞堤の締切りが決定された経緯等について行政監察を行った結果、右締切りが決定されたとされる昭和四三年七月の箇所別変更調書及びその前後の工事実施計画書等の関係書類の中で関係原議等その検討経過を示す決裁伺い書等が欠如しており、文書管理に慎重な配慮が欠けていたとの指摘がなされたが、他の関係文書や工事実績等に照らしその真正を否定するというものではなかったことが認められる。また、右箇所別変更調書については、締切りを記述した部分のみが他の部分の縦長の書式と異なり横に長い書式であることが認められるけれども、前後の工事実施計画や工事実績と対比すると、右箇所別変更調書によって締切りが決定されたものと認めるほかなく、文書形式の違いのゆえに箇所別変更調書の作成を疑うことはできない。

3  長岡バイパス建設工事と長岡大橋の架橋

国道八号線の長岡バイパスは、長生橋及び旧国道八号線と国道一七号線の交差点付近の交通渋滞を緩和する目的で計画され、昭和三八年度及び昭和三九年度に計画線調査、昭和四一年度に重要構造物(橋梁)調査が行われ、その結果に基づいて昭和四二年六月にルートが発表され、長岡大橋の建設も決定された。長岡大橋が蓮潟地区に建設されることになったのは、長生橋と蔵王橋のほぼ中間地点に当たり、かつ、信濃川右岸の都市計画道路にも接続し、市内交通の緩和にも役立つとの理由からであった。

そして、昭和四五年一一月、長岡バイパス及び長岡大橋は、暫定二車線として完成した。

4  田中と被控訴人との関係について

(一) 被控訴人は、昭和三七年一二月一七日、貸室、貸家、不動産の売買及び斡旋、土地造成、土木建築の設計施工請負、証券投資等を目的として、資本金一二五〇万円で設立された会社であり、設立当初の本店所在地は東京都新宿区市谷佐内町二二番地であった。同所には、被控訴人、越山会の元会計責任者の佐藤昭、第三者の区分所有にかかる鉄筋コンクリート造陸屋根地下一階付地上四階建居宅のビルがあり、佐藤昭の住所もあった。

(二) 被控訴人の役員構成は、設立当初、右佐藤昭が代表取締役、戸田久、沢村喜三が取締役、竹田正義が監査役にそれぞれ就任していた。しかし、佐藤は、昭和三八年四月一五日代表取締役を辞任し、同日、日本電建の代表取締役を務める入内島金一が、佐藤から被控訴人の全株式を譲り受けて代表取締役に就任した。入内島は、田中とは昭和九年ころから親しい間柄にあり、戦後、田中の依頼を受けて田中の経営する田中土建工業株式会社や日本電建の経営に携わるようになっていたものである。昭和三八年九月二日、入内島が被控訴人の代表取締役を辞任し、前記関藤栄が代表取締役に就任したが、同年一一月九日、関は辞任し、入内島が再び代表取締役に就任した。これは、被控訴人が本件河川敷を買い受けるに当たり、入内島が、現地の事情に精通していた関に被控訴人の代表取締役となってもらった方が事がうまくいくと考え、関に代表取締役就任を依頼し、その後買受けの段取りが決まったことから関が辞任を申し出たため、短期間で代表取締役が交替したことによる。

昭和三八年一二月一七日、代表取締役の入内島、取締役の佐藤、戸田、沢村、関、足立篤郎、監査役の竹田が全員退任し、昭和三九年五月二〇日、右退任した全員が全く同じ役職で被控訴人の役員に就任した。右退任登記は昭和三九年六月二六日になされたが、退任の日である昭和三八年一二月一七日から就任の日である昭和三九年五月二〇日までの役員は不明である。その間の昭和三九年一月二六日、被控訴人の本店所在地が新宿区本塩町二三番地に移転し、その旨登記された。

昭和四一年五月二五日、田中の秘書である榎本敏夫、早坂茂三が取締役に、同じく田中利男が監査役に就任し、同年一〇月三日、榎本ら三名は右役員を辞任し、その代わりに越後交通関係者の庭山康徳、片岡甚松が取締役に、監査役に前記風祭康彦が就任した。

その後は、代表取締役が入内島、取締役が関、庭山、片岡ら、監査役が風祭(昭和五〇年九月以降取締役に就任)とほぼ固定して推移し、昭和六〇年六月二七日風祭が代表取締役に就任した。平成四年七月時点における役員は、代表取締役が風祭、取締役が庭山、遠藤昭司らである。

(三) 被控訴人の資本金は、入内島の代表取締役就任後逐次増額され、昭和三八年一一月に、一億五〇〇〇万円、昭和三九年六月に二億五〇〇〇万円、昭和四一年八月に五億円、昭和四二年一月に七億五〇〇〇万円、昭和四九年二月に一〇億円に達したが、平成二年七月、減資されて一億円となった。その株主構成については、必ずしも明確ではない。入内島は、代表取締役就任に際し、佐藤から全株式を取得したが、その後被控訴人の増資に伴い、新潟交通、日本電建、新星企業株式会社等田中の関連会社といわれている法人や田中の知人等の個人が株主となっている。田中自身は、被控訴人の株主となったことがない。

(四) 被控訴人の営業活動は、主として本件河川敷の買収であったが、一時的に不動産の売買、斡旋を行っていたことがある。被控訴人が不動産の売買及び斡旋等の業務遂行に必要な宅地建物取引業法の免許を取得したのは、設立後四年余を経過した昭和四二年三月二〇日であり、右免許も三年後の更新がなされず失効した。

被控訴人は、営業活動の根拠となる営業所を設けたことはなく、専属の従業員が働いたこともない。本件河川敷の買収についても、前記のとおり風祭康彦が担当した。

被控訴人の事務は、必要の都度、田中事務所の秘書らが兼ねて行っており、被控訴人の会計責任者は、田中の秘書である山田泰司であった。被控訴人は、右の者らの給与等を会社の人件費から支払っていたことが判明し、昭和五八年、国税局の摘発を受け、右支出について田中への寄附金とする旨の更正処分を受けた。

(五) 昭和五五年三月三日、被控訴人の出資により、千秋が原工業が設立され、本店は被控訴人と同じ場所におかれた。資本金一〇〇〇万円のうち、六五〇万円については、被控訴人が所有していた新堤内地の南半分(北半分は後記5(四)のとおり昭和五四年に長岡市に譲渡されている。)のうち三一万三〇〇〇平方メートル余が現物出資された(被控訴人は、なお、新堤内地のうち残り四万一〇〇〇平方メートル余及び新堤外地三八万五〇〇〇平方メートル余を所有している。)。

被控訴人は、昭和五八年三月、千秋が原工業の全株式を新潟遊園に対し二億円で売却した。新潟遊園は、東京ニューハウスが昭和五六年四月に新潟遊園株式会社を合併して商号を変更したものであり、田中の私邸の敷地二〇〇〇坪の約半分を所有するなどしており、当時田中の秘書であった遠藤昭司が代表取締役を務めていた。東京ニューハウスは、昭和三六年八月長岡ビルディング株式会社の商号で設立されたものであり、当時は田中が代表取締役であった。この被控訴人から新潟遊園に対する千秋が原工業の全株式の譲渡について、東京国税局は、昭和六一年六月、千秋が原工業は新堤内地三一万三〇〇〇平方メートル余を所有していることなどから、全株式の評価は二〇億円が相当であり、譲渡価格を超える一八億円については寄付に当たるとして、被控訴人に対する更正処分を行った。

そして、昭和五八年八月、新潟遊園は長鐡工業に合併され、右三一万三〇〇〇平方メートル余の新堤内地は実質上長鐡工業に帰属するに至った。同社は、昭和三七年八月に設立されたものであり、右合併時に一五億円に増資され、合併当時、風祭康彦が代表取締役、遠藤昭司、田中の秘書である山田泰司、田中の娘婿である田中直紀らが取締役を務めていた。その後、田中が代表取締役に就任し、平成二年八月には田中の娘の田中真紀子、田中直紀らも代表取締役に就任した。同社は、その株式が田中家によって保有されており、田中家の支配下にある。平成二年一〇月、千秋が原工業においても、田中直紀が代表取締役に就任した。

(六) 被控訴人及び千秋が原工業の本店所在地は、いずれも平成二年二月一日、東京都新宿区市谷本村町三番二六号から東京都豊島区高田一丁目三八番一一号に移転された。同所には目白ガーデンハイツと称するビルが建てられ、敷地とともに区分所有されているが、そのほとんどを長鐡工業が所有している。その事務所棟の入居者の表示ボードには、長鐡工業や田中直紀事務所が表示されているが、被控訴人や千秋が原工業の表示はない。

5  本件河川敷に関する本件各契約後の事情

(一) 日本共産党中越地区委員会は、昭和四一年一〇月二〇日の前記加藤議員による衆議院予算委員会における質疑の直後、長岡市民にビラを配付するなどして、田中の支配下にある被控訴人が、いずれ国に取り上げられる土地であると農民をだまして安値で本件河川敷を買い上げたと批判し、耕作権を農民に返還することなどを訴えた。しかし、本件河川敷を売買した農民らにおいて、実際に本件全体契約の効力を問題とする者は現れなかった。

(二) 本件売買契約によると、被控訴人への所有権移転登記時までは売主側で固定資産税を負担するとの約束であったが、控訴人らは、登記未了の昭和四五年四月、被控訴人に売り渡した昭和三九年以後昭和四四年まで控訴人らが支払った各所有地の固定資産税(控訴人大井が一二〇〇円、控訴人長谷川が九〇円)について、被控訴人から求償を受けた。

(三) 昭和四九年、越後交通は、被控訴人から新堤内地を借り、パブリックゴルフ場を開設することを企画し、被控訴人の承諾を得た。そして、本件全体契約後もそれに基づき耕作を続けていた控訴人ら農民から離作のうえ土地の引渡を受けるべく、それぞれと離作補償契約を締結し、同年四月、農民らに対し反当たり六〇万円の離作補償料(合計二億七、八千万円)を支払った。右離作補償料として、控訴人大井は一一九万四〇〇〇円を、控訴人長谷川は一〇八万六〇〇〇円を受領した。そして、農民らは、新堤内地における耕作を止めた。

しかし、最終的にはパブリックゴルフ場開設には至らず、越後交通の支払った右離作補償料全額は被控訴人から越後交通に返還された。

(四) 昭和五四年一二月、新堤内地のうち、およそ北半分の土地が八億円で被控訴人から長岡市に譲渡された。

これより先、長岡市長の小林孝平は、本件河川敷が被控訴人によって買受けられていることを知り、田中が被控訴人の実質的オーナーであるとの認識のもとに、田中に対し、本件河川敷は長岡市にとって重要な土地であるので、利用するときは長岡市に寄与するような形で使ってほしいと申し入れ、田中の了承を得た。そして、後記のいわゆる田中金脈問題が発生した後の昭和五〇年九月、小林市長は、建設大臣から本件河川敷の公共利用について田中の同意を得てほしいとの依頼を受け、同月二五日、本件河川敷の新堤内地を二分して、その半分を長岡市が譲り受け、残りの半分を田中が公共用地として利用するという案を作成し、田中邸に赴き、右案を示し、当初拒否の意思を示した田中に対し、いろいろと説得を試みた結果、翌二六日、田中邸において、被控訴人の代表取締役の入内島が同席のうえ、田中が右提案を受けいれる旨表明し、新堤内地の半分が長岡市に譲渡されることが決まった。右合意に基づき、前記のとおり新堤内地の北半分が長岡市に譲渡されたものである。

その後、右土地については、長岡市によって「千秋が原ふるさとの森整備事業」が実施されている。

(五) 昭和五五年、新堤内地の南半分の大部分が千秋が原工業に現物出資されてから本件河川敷の一部で一時砂利採取が行われた。しかし、その後はその一角に越後交通本社ビルが建設されているほかは、荒れ地の状態であった。

(六) 昭和四九年秋、立花隆が文芸春秋同年一一月号に「田中角栄研究―その金脈と人脈」との論文を発表したことが契機となり、いわゆる田中金脈問題が発生し、国会(昭和四九年一一月八日の参議院決算委員会等)において、野党議員から田中金脈に関して田中の政治責任を追及する質問がなされ、その中で本件河川敷の買収問題も取り上げられ、また、同年一二月四日には参議院決算委員会野党合同調査団の現地調査が行われるなどした。

長岡市議会においては、かねてから本件河川敷の売買あるいは本件河川敷の公共的利用等をめぐって質疑がなされてきたところ、右田中金脈問題の発生後、日本共産党の結城熊太郎議員や渡辺綱義議員らは、本件河川敷を農民に返還する方向で解決を促進することを求めるようになった。

控訴人大井は、田中金脈問題が生じた後、親戚の右結城熊太郎議員に本件各契約について相談を持ちかけるなどした結果、控訴人長谷川とともに本件訴訟を提起するに至った。

二以上の認定事実に基づき判断する。

控訴人らは、昭和三七年大蔵大臣に就任した田中が、その職務上知り得た情報により、蓮潟地区の堤防送り出し工事が昭和四〇年に着工されること及びそれに伴い長岡大橋の架橋工事も始まることなどの事実を十分認識しながら、自己又は自己と一体関係にある被控訴人の利益を図るために、これらの事実を蓮潟地区の農民らに秘匿して、堤防送り出しにより一等地となり得る本件河川敷を安値で被控訴人に買い占めさせ、莫大な値上がり利益を得たものであると主張する。

一般に、国務大臣又は国会議員などの政治家が、その地位に伴い職務上知り得た情報を利用して、自己又は第三者の利益を図る目的で、右情報を秘匿したまま、これを知らない相手方と私法上の契約を締結したような場合には、右契約は、政治家としての地位を不当に利用したものとして公序良俗に反し無効と解するのが相当である。その理由については、原判決の説示するところ(原判決四八枚目裏二行目から同五〇枚目表二行目まで)と同様である。

ところで、本件全体契約は、田中が農民らから本件河川敷の売却の斡旋の陳情を受けたのに応じて、田中と前記のような関係にある被控訴人が、昭和三八年六月に本件河川敷を買い受ける意思を表明し、同年九月から昭和四一年八月ころまでの間に、農民ら約三〇〇人から本件河川敷を買い受けるなどしたというものである。そして、昭和四〇年九月、蓮潟地区において霞堤としての着工がなされ昭和四三年七月に霞堤の締切りの決定がなされ、昭和四五年一二月に連続堤として築堤工事が完了して、本件河川敷のうち新堤内地が堤内地となり、また、同年一一月には長岡バイパス及び長岡大橋が完成した。これによって、被控訴人の取得した本件河川敷の経済的価値が著しく上昇したことは明らかである。

そこで、本件全体契約が田中の政治家としての地位の利用に当たるかどうかについて検討する。

1  田中と被控訴人との関係について

前記の認定事実、なかんずく、本件河川敷を買い取ることになった当時被控訴人の代表取締役をしていた入内島金一は、田中の親友であり、かねてより田中の企業に経営者として参画していたものであり、被控訴人のその他の役員もすべて田中の秘書など関係のある者ばかりであること、被控訴人には、本件河川敷の売買等を除き、みるべき事業実績がなく、独立した事務所はなく、専属の従業員がおらず、必要なときにその事務処理や会計を田中事務所の秘書らが行うという程度で、企業としての実体は乏しく、田中事務所の人件費を一部負担するなどのことに利用されていたこと、長岡市への新堤内地の北半分の譲渡は、小林市長が田中と交渉して初めて実現したこと、新堤内地の南半分のほとんど全部は、千秋が原工業の全株式を所有する長鐡工業の株式保有を介して実質上田中に帰属していることなどからすると、被控訴人は実質的に田中によって支配されていた会社であると推認するのが相当であり、本件河川敷に関しても田中と情報を共有する関係にあったものというべきである。したがって、本件全体契約につき田中の政治家としての地位利用が認められるとすれば、右契約は公序良俗に反するものとして効力が否定されることになる。

2  築堤等についての田中の認識について

(一) 田中が昭和二二年以来衆議院議員として当選を重ね、昭和三三年八月郵政大臣、昭和三四年一二月自民党県連会長、昭和三五年一一月自民党水資源開発特別委員長、昭和三六年七月自民党政務調査会長を経て、昭和三七年七月大蔵大臣に就任し、昭和四〇年六月までその地位にあったことは争いがない。

(二) 昭和四〇年九月の霞堤としての着工は、昭和四〇年度以降新五か年計画に基づくものであり、同計画の予算化は早くても昭和三九年と考えられ、昭和四〇年九月の着工自体が最終的にいつ確定したものであるかは判然としないけれども、蓮潟地区における霞堤としての築堤計画は、昭和二八年度以降総体計画及び昭和三八年度以降総体計画において掲げられ、上流の釜ケ島地区に引き続いて実施される予定のものであり、客観的にも釜ケ島地区の工事の進捗によってある程度の予測が可能であったことなど前記一2認定の諸事実に照らすと、田中は、本件全体契約の締結が始まった昭和三八年九月までの時点で、昭和四〇年ころに霞堤としての着工がなされることはほぼ認識していたものと推認するのが相当である。

次に、昭和四三年七月に霞堤の締切りが決定されたことについてみると、昭和三八年度以降総体計画の中で、今後の懸案事項として、遊水池とすることの経済効果等を調査し、連続堤とするかどうか検討するとされていたこと、昭和四〇年一〇月二〇日の衆議院予算委員会において、橋本建設大臣が霞堤であることを明確に答弁しており、その時点においては右検討が未了であったと考えられ、その後、建設省内部において遊水池とすることによる遊水効果についての技術的検討が行われた結果、昭和四三年七月に締切りの決定がなされ、実施されたことなどからすると、霞堤の締切り(連続堤への変更)は、霞堤工事の当然の延長として霞堤着工前から既に決まっていたことであるとは認め難い(昭和三七年二月、北陸地建から霞堤計画を変更して連続堤とする案が出されたが、保留となったことは前記一2(二)のとおりであり、また、昭和三七年四月から昭和四一年九月まで長岡工事事務所長を務めた当審証人京坂元宇は、当時は、霞堤として築堤する計画であったが、霞堤を延ばしていけばいずれ締め切らざるを得なくなるであろうと考えていた旨供述するが、現場の技術者としての見通しに止まる。)。したがって、締切り決定の約五年も前の昭和三八年九月までの時点において、建設省の今後の築堤計画が霞堤から連続堤に変更されるものであること及びその実施時期等について、田中がこれを具体的に知ることが可能であったと認めるには無理があるというほかない。また、田中が自ら進んで築堤計画を霞堤から連続堤に変更するよう働きかけをしていたと認めるべき証拠はない。

(三) 以上のとおり、田中は、昭和三八年九月以前において、昭和四〇年ころに従前の計画どおり霞堤としての着工があることは職務上ほぼ知り得ていたと認められるが、それから更に進んで、築堤計画が変更されて霞堤が締め切られることについてまで職務上知り得た情報によりこれを具体的に認識していたと認めることはできない。

(四) もっとも、昭和三七年二月に霞堤計画を連続堤に変更することを相当とする長岡工事事務所と北陸地建の打合せ案が出されたことなどは、田中も知らなかったものとは考えられず(昭和三七年四月に、それまで長岡工事事務所長であった松野時雄が田中の会社である日本電建に入社した事実は証拠上明らかである。)、また、本件河川敷から約一〇キロメートル上流の左岸にある釜ケ島地区に計画された堤防について、当初霞堤として予定されていたものが昭和三六年に締切りが決定され、連続堤としての工事が進められていたことは前記一2(二)認定のとおりである。そして、九条地について締結された本件停止条件付引渡契約では、河川敷地の公用廃止により廃川敷地処分が行われることを予定したものとなっている。これらの事情から判断すると、昭和三八年九月当時、田中としては、自らの判断として、蓮潟地区の堤防についても、現在計画中の霞堤が近い将来締め切られるであろうとの見通しを持ち、そうなれば、本件河川敷を他の用途に利用することができ、廃川敷地処分を受けることも可能になると考えていたであろうことまでは否定することができない。〈書証番号略〉によって認められる田中の昭和四一年一〇月二〇日の記者会見における発言に徴しても、築堤後の本件河川敷が工場用地等として使用可能なものになることを認識していたことがうかがわれる。しかし、こうした見通しあるいは認識以上に、田中が築堤計画の変更及び時期等について職務上知り得た情報により具体的な認識を有していたと認めるに足りる証拠はない。

昭和三八年九月に本件全体契約の締結が始まり、昭和四〇年九月霞堤着工、昭和四三年七月霞堤締切り決定、昭和四五年一二月連続堤完成、同年一一月長岡バイパス及び長岡大橋完成という一連の経過をみると、本件河川敷の買収と右各工事の実施との間に特別の関連があったのではないかとの疑いを招くのも故なしとしないが、本件訴訟に現れた証拠による限り、先に認定したところを超えて右の点を積極的に肯定するにはいまだ足りないといわざるを得ない。

(五) 長岡バイパス及び長岡大橋の建設に対する田中の認識についてみると、昭和三八年に計画線調査が始まっていることなど前記一3認定の諸事情からして、具体的な建設ルート及び着工時期はともかく、堤防送り出しに伴って、近いうちに確実に建設されるとの認識は持っていたものと認めるのが相当である。

3  築堤等についての農民らの認識について

(一) まず、農民らが蓮潟地区における築堤についていかなる認識のもとに本件全体契約を締結したかについてみると、農民らは、堤防送り出し後の河川敷の有効利用を図るために、これに企業を誘致し、あるいは工場を建設することなどを考えて、堤防送り出し運動を行っていたものであること、上流の釜ケ島地区においては、昭和三六年に霞堤の締切りが決定され、連続堤としての工事が進められていたこと、農民らが有効利用の方法として検討した河川敷への企業誘致や工場建設がいずれもまとまらなかったために売却の方向に移行したものであること、売却の対象範囲は、農民ら自身によって、信濃川右岸から九〇〇メートルの地点に新堤防の法線がくるという前提でその堤内地側と決められ、その売却価格についても、農民らの要求に基づき、民有地の農地は近くの旧堤内地の売買事例とほぼ同じ価格とし、その他は右を基準として適宜減額して決定されていること、本件全体契約は、農地の転用や廃川敷地処分のあることを停止条件とするものであり、かつ、停止条件でありながら代金や離作補償料は直ちに支払われていること、本件全体契約の締結が終了しない昭和四〇年九月に霞堤としての築堤工事が始まっているが、それによって契約交渉に影響が生じた形跡はないこと、連続堤や長岡大橋が完成した後の昭和四九年に本件河川敷にパブリックゴルフ場の建設が持ち上がった際、耕作している農民らは全員、本件全体契約の効力を問題とすることなく、反当たり六〇万円の離作料を受領していることなどの各事実は前記一認定のとおりである。これらの事情を総合すると、農民らも、必ずしも具体的根拠に基づくものではなかったにせよ、地元の見通しとして、近い将来築堤工事により本件河川敷を工場敷地等として利用できることになるであろうという程度の認識を持って契約したものと認めるのが相当である。

(二) 控訴人らは、築堤計画が具体化されることを農民らは何も知らなかったと主張する。

確かに、蓮潟地区の堤防が昭和四〇年九月に霞堤として着工され、昭和四三年七月に霞堤締切りの決定がされることについて農民らが具体的な認識を有していたとは認められないし、また、前記2で判示した田中の認識等と比較すれば、農民らの認識は具体性に乏しいものであったといわざるを得ないが、農民らが本件河川敷の売却に先立ちこれを工場敷地等として利用することを検討していたなどの事実からみて、右売却当時においてもなお、本件河川敷に築堤される見込みが当分なく今後も堤外地として従前のままになっていくとの認識であったとは信じ難いところである。主立衆が一般農民の意向を無視して事を運んだとの主張を採用し難いことは前判示のとおりである。

もっとも、農民らにおいて築堤につき右認定の程度の認識を有していたとすれば、なぜ本件河川敷を売却したのかとの疑問がないわけではないけれども、農民らの検討した本件河川敷への企業誘致、工場建設の件がまとまらず、本件河川敷を有効に開発、利用する方策が見つからなかったこと、後記第三認定のとおり、本件河川敷付近の旧堤内地も当時はまだ農村地帯であり、築堤等による地域の発展を簡単に予測できなかったと考えられること、本件全体契約に応じた農民らは、旧堤内地に相当の農地を有しており、本件河川敷を手放しても農業を継続することができたこと、昭和三三年から昭和三六年にかけて近郷の小沢、古正寺部落が日産化学工業株式会社に土地を売却して工場を誘致し、多額の現金を得るとともに、地元の雇用にも役立った例があったこと、農業の機械化の影響により農民らが機具購入等の資金を欲したこと、売却価格も農民側で指定するものであったことなどの事情からして、農民らが近い将来堤内地となり得る本件河川敷を自分たちが相当と考える価格で売却したとしてもあながち不自然ではないというべきである。

(三) 次に、長岡大橋の建設に対する農民らの認識については、必ずしも明らかではなく、その建設ルートや着工時期を農民らが具体的に知っていたとは認められないが、従来の経緯等からして、堤防送り出しと連動して地元の要望が実現されるとの認識が一般的であったと推認される。

4  田中から農民らに対する働きかけについて

控訴人らは、田中は本件河川敷を買い占めるため、主立衆をたくみに振りまわし、事情を知らない農民らを売却する方向に誘導し説得した旨主張する。

しかし、売却に至る経過は先に認定したところであって、農民らの間で本件河川敷の利用方法がまとまらず、売却を希望する声が大勢となったので、全員の合意により値段を決めて売却の斡旋を農民側から田中に依頼したものである。田中の方から進んで買取りを計画し、農民らに対して売却するよう誘導、説得するなどの働きかけをしたとの事実は証拠上認めることができない。

5 以上の事実関係の下においては、本件各契約を含む本件全体契約が、田中の政治家としての地位利用、すなわち田中がその地位に伴い職務上知り得た情報を利用し、利益を図る目的で、右情報を農民らに秘匿して被控訴人に本件全体契約を締結させたものと認めるには十分でないというべきである。

前記のとおり、本件全体契約の締結が始まった昭和三八年九月当時までに、田中は、霞堤の築堤工事が昭和四〇年ころに着工され、長岡大橋の架橋も近いことを知り、また、右霞堤が近い将来締め切られるであろうとの見通しを持っていたものであるが、他方、農民らにおいても、堤防送り出しとこれに連動する架橋が近い将来行われ、堤内地となる本件河川敷を工場等の敷地として利用できることを予測していたものであり、その利用方法を検討した結果、工場誘致等をするよりは高く売却することを合意し、その斡旋を田中に依頼するに至ったものである。そして、農民らが築堤及び架橋について有した認識は、その実現の時期等の点で具体的でなかったにせよ、それがために本件河川敷を売却するかどうかの大局的判断を誤るものであったとは考えられない。また、田中が、農民らの右判断に影響を及ぼすような築堤及び架橋に関する情報を職務上知りながら、これを殊更秘匿して農民らの不知又は誤解に便乗して売買を進めたとの事実を確認するに足りる証拠もない。

田中としては、霞堤の締切りと架橋が実現するとの見通しの下に、広大な本件河川敷を一括取得しておけば将来的に大きな値上り利益を見込めるとして、被控訴人に農民らからの売却要請を引き受けさせたものと推測されるけれども、このような行為が政治家のモラルの問題として様々な批判を免れないことはともかく、それだけで直ちに本件全体契約そのものが政治家の地位利用に当たると解することはできない。

結局、右の点については控訴人らの立証がないというに帰する。

控訴人らは、政治家としての地位利用の立証について、その蓋然性を示す証拠が提出されたときには、これを争う相手方において、政治家としての地位利用がないことを立証する責任を負う旨主張するけれども、公序良俗違反による契約の無効については、権利障害事実としてそれを主張する者が立証責任を負うとの原則を変えるべき理由は見出し難い。

よって、再抗弁1の(一)、(二)は失当である。

第三再抗弁1の(三)(暴利行為)について

一暴利行為として公序良俗違反になるかどうかは、当該法律行為の時点を基準に判断すべきものであり、このことは、本件各契約のように停止条件付法律行為の場合であっても異ならないものというべきであり、本件各契約については停止条件成就時を基準に判断すべきであるとの控訴人らの主張は採用することができない。

二そこで、まず、本件各契約における売買価格と昭和三九年当時の本件河川敷の適正価格とを比較すると、右適正価格については、控訴人らから鐘ケ江晴夫作成の鑑定書(〈書証番号略〉、原審証人鐘ケ江晴夫の供述を含めた一体のものを意味する。)、被控訴人から横須賀博作成の鑑定書(〈書証番号略〉、原審証人横須賀博の供述を含めた一体のものを意味する。)がそれぞれ提出されているところ、右各鑑定内容の要旨及びそれに対する当裁判所の評価は、以下に記載するほかは、原判決理由欄第二、二、4の(二)の(1)から(六)まで(原判決五七枚目表一三行目から六五枚目表一〇行目まで)に記載のとおりである。

1  原判決五七枚目裏三行目の「(四)ないし(七)」を「(三)ないし(七)」に改め、同行の「単に」の次に「(三)」を加え、同五八枚目表一一行目の「比較検討し、」の次に「右取引事例の平均価格が公示価格とほぼ同じであったため、」を加え、同裏一三行目の「(四)、(五)、(六)、(七)」を「(三)ないし(七)」に改め、同五九枚目表一行目の「勘案し、」の次に「(三)の土地を一平方メートル当たり四万九〇八七円(総額四万九〇八七円×二一四平方メートル=一〇五〇万四六一八円)」を加え、同五行目ないし七行目の(五)及び(六)の土地の単価を「一平方メートル当たり四万〇九〇六円」に、総額を「一二二七万一八〇〇円」に改め、同一三行目の「(四)」を「(三)」に改め、同裏三、四行目の「現在の」の次に「(三)の土地を三八万二一一八円(一平方メートル当たり一四八八円)、」を加え、同五、六行目の(五)及び(六)の土地の総額を「四四万六四〇〇円」に、単価を「一平方メートル当たり一四八八円」に改める。

2  同六〇枚目裏六、七行目の「旧堤内地」の次に「の、右各所有地に比較的近い場所」を、同八行目の「価格」の次に「(一平方メートル当たり七五〇円)」をそれぞれ加え、同九行目の「による修正を行い」を「について、現実の取引価格(昭和五五年一〇月に新堤防の内外の土地が同時に取引された事例における価格)における開差17.5パーセントと最有効使用における開差(想定標準地が宅地転換への期待性のある土地であるのに対し、右各所有地の最有効使用が畑にとどまることによる開差)18.8パーセントの中庸値一八パーセントによる減額修正を行うなどして」に改め、同六一枚目裏一一行目の「(四)の土地については、」の次に「無道路地であるため、」を加える。

3  同六四枚目表三、四行目の「前記のように、」の次に「本件河川敷付近の旧堤内地はいまだ農村地域であり、宅地化のための社会的、経済的条件が整備されつつあったとは認め難く、」を加え、同裏一行目の次に改行のうえ「なお、鐘ケ江鑑定は、本件各契約当時の適正価格を導き出すために、昭和五九年一二月時点の適正価格を基準にして地価指数、卸売物価指数による修正をしているにすぎないが、本件河川敷については、本件全体契約後、築堤工事がなされて堤内地となり、長岡バイパス及び長岡大橋が建設されるなど土地の適正価格の評価に大きく影響すると思われる事情の変更があったのであるから、一般的、抽象的な地価指数による修正のみで右のような事情変更があったことを十分に考慮できるとは考え難く、この点でも鐘ケ江鑑定には疑問が残る。」を加える。

4  同六五枚目表一〇行目の次に改行のうえ以下を加える。

「控訴人らは、横須賀鑑定が評価の過程で想定標準地をおいたことについて、本件河川敷の適正価格を低く定めるための人為的な操作である旨の非難をするけれども、横須賀鑑定は、右過程で用いた取引事例と本件河川敷との間には共通の地域要因がないために、本件河川敷と地域要因を同じくする想定標準地を定めてその価格を出したうえ、想定標準値と本件河川敷との個別的要因のみによる開差から本件河川敷の適正価格を求めたものであり、合理的な方法と認められるから、控訴人らの右非難は当たらない。

控訴人らは、また、周辺の取引事例における価格(〈書証番号略〉)と対比して横須賀鑑定の価格は著しく低額であるとして非難するけれども、右取引事例のうち、本件全体契約と接近して行われたのはわずか昭和三九年一〇月の一例(畑五〇坪が五〇万円で売買された事例であり、坪当たり一万円、一平方メートル当たり約三〇〇〇円である。)のみであり、しかも、〈書証番号略〉及び当審証人渡辺綱義の供述によると、同土地は、長生橋の旧々国道に面していて、長岡市街への交通も便利であり、右売買直後に宅地に造成されたものであることが認められ、その位置関係や宅地見込地であったことなどからして、横須賀鑑定における想定標準地や本件河川敷とは価格の要因がかなり異なるものというべきであるから、控訴人らの右非難も当たらない。」

三次に、本件河川敷の売買が行われるに至った経緯は前記のとおりであって、本件全体契約は、農民らからの売買の斡旋の陳情に基づきなされたものであり、しかも、農民らにおいて、自発的に、信濃川右岸から九〇〇メートルの地点に堤防が作られると想定してその堤内地側を売買の対象とし、民有地の農地については近くの旧堤内地の売買事例と同じ価格とし、その他の土地については適宜減額して価格を定め、これを被控訴人に提示して、最終的にこれがいれられて本件全体契約に至っているものである。

四以上によると、本件各契約について、これを暴利行為と認めることはできず、控訴人らの右主張は採用できない。

第四再抗弁2(詐欺による取消)について

原判決六五枚目裏九行目末尾に「また、右風祭らが、控訴人らにおいて近い将来築堤等が行われないと誤信している状態を利用して本件各契約を成立させたものとは認められない。」を加え、同六六枚目表四行目から九行目までを次のとおり改めるほか、原判決理由欄第二、三に記載のとおりである。

「控訴人らは、田中及び被控訴人には築堤計画とその見通しについて控訴人ら農民に説明する義務があった旨主張するけれども、前記の事実関係を前提とすれば、被控訴人に控訴人ら主張のような説明義務があったものとは解することができず、控訴人らの主張は採用できない。また、田中及び被控訴人が本件河川敷を取得して将来大きな利益を挙げることを目的としていたとしても、そのことを控訴人ら農民に説明する法律上の義務があったとはいい難い。

したがって、再抗弁2は理由がない。」

第五再抗弁3(錯誤無効)について

原判決六六枚目裏八行目から六七枚目表一行目までを次のとおり改めるほか、原判決理由欄第二、四に記載のとおりである。

「昭和四〇年九月に霞堤の着工がなされ、昭和四三年七月に霞堤の締切りが決定され、昭和四五年一二月に連続堤が完成し、そのころに長岡バイパス及び長岡大橋も建設されるというその後の経過は、控訴人らにとって契約当時に認識していた以上のものであったことは否定できないけれども、近い将来堤内地となることを前提として本件各契約を締結したものであり、右築堤及び架橋が当分行われないということが契約の内容又は主要な動機をなしていたとは認められないので、右のようなその後の事情を理由として契約の要素に錯誤があるとはいい難い。

したがって、再抗弁3は理由がない。」

第六再抗弁4(国有財産法一六条違反による無効)について

原判決六七枚目表一一行目の「さらに、」から同裏二行目末尾までを「右のような売買契約について、国有財産法一六条の適用はないというべきである。」と改めるほか、原判決理由欄第二、五に記載のとおりである。

第七結論

以上によると、控訴人らの請求はいずれも理由がないので、これを棄却すべきである(なお、引渡債務不存在確認請求に関する被控訴人の本案前の主張は、原判決記載と同様の理由により採用しない。)。

よって、これと同旨の原判決は相当であり、本件控訴は理由がないので、これを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官佐藤繁 裁判官岩井俊 裁判官坂井満)

別紙控訴人ら代理人目録

清野春彦 小島成一

中村洋二郎 渡辺正雄

栃倉光 上條貞夫

中村周而 坂本修

工藤和雄 高橋融

足立定夫 西村昭

高橋勝 秋山信彦

味岡申宰 永盛敦郎

鈴木俊 山本眞一

土屋俊幸 柳沢尚武

金子修 岡田和樹

坂東克彦 井上幸夫

川村正敏 今野久子

橋本保則 志村新

平田亮 橋本佳子

小海要吉 小林譲二

川上耕 加藤健次

渡辺昇三 滝沢香

富森啓児 近藤忠孝

佐藤義弥 大塚勝

松井繁明 小林亮淳

小池振一郎 前田茂

上田誠吉 植木敬夫

谷村正太郎 橋本紀徳

西嶋勝彦 田中富雄

岡部保男 小川芙美子

高畑拓 松本善明

浜口武人 寺村恒郎

石野隆春 飯田幸光

渡部照子 須藤正樹

清野順一 山口英資

鷲見賢一郎 藤井篤

後藤富士子 青木和子

鈴木克昌 長谷川史美

南惟孝 羽鳥徹夫

森賀幹夫 長澤彰

青柳盛雄 尾崎陞

小林亮淳 小木和男

小部正治 金井克仁

荒井新二 平野大

大塚一男 竹澤哲夫

小寺貴夫 田中隆

青柳孝夫 弓仲忠昭

榎本武光 大熊政一

板垣光繁 関島保雄

斉藤展夫 吉田栄士

彦坂敏尚 鈴木亜英

林勝彦 亀井時子

伊藤芳朗 堀敏明

笠原哲朗 増本一彦

稲生義隆 根岸義直

堤浩一郎 小口千恵子

中村宏 畑山穣

川又昭 根本孔衛

杉井厳一 篠原義仁

星山輝男 岡村共栄

三竹厚行 武下人志

高橋勲 中丸素明

高橋修一 大久保賢一

戸張順平 一木明

高坂隆信 下田範幸

廣田繁雄 小林勝

石川憲彦 小野寺照東

鹿又喜治 庄司捷彦

佐藤欣哉 外塚功

沼澤達雄 横道二三男

蛇川高範 横山慶一

佐藤哲之 石田明義

林百郎 菊地一二

毛利正道 木下哲雄

岩崎功 岩下智和

小笠原稔 大門嗣二

寺島勝洋 関本立美

阿部浩基 石田亨

渥美玲子 恒川雅光

田原裕之 福井悦子

佐久間信司 森山文昭

松本篤周 加藤美代

藤井繁 中谷雄二

石坂俊雄 村田正人

伊藤誠基 簑輪弘隆

安藤友人 鷲見和人

梨木作次郎 飯森和彦

吉原稔 稲村五男

村山晃 森川明

村井豊明 久保哲夫

飯田昭 荒川英幸

岩橋多恵 平田武義

岩佐英夫 籠橋隆明

中島晃 中村和男

吉田容子 宮本平一

山内康雄 羽柴修

小牧英夫 吉田恒俊

松岡康毅 福山孔市良

寺沢達夫 長野真一郎

城塚健之 杉本吉史

河村武信 上山勤

関戸一考 谷田豊一

藤木邦顕 鈴木康隆

渡辺和恵 岩田研二郎

宇賀神直 蒲田豊彦

吉岡良治 藤井光男

岩城穣 戸谷茂樹

杉山彬 野中厚治

平山正和 山名邦彦

大江洋一 石川元也

相良勝美 服部融憲

田川章次 君野駿平

土田嘉平 谷脇和仁

小島肇 田中久敏

永尾廣久 中野和信

池永満 駿河哲男

山下基之 塙悟

鈴木修 岸本務

別紙被控訴人代理人目録

新関勝芳 石井嘉夫

金田善尚 稲田寛

中村浩紹 風間士郎

恵古シヨ 村山六郎

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